先生紹介 南砺市 松村謙三記念会館

南砺市 松村謙三記念会館

松村謙三(1883~1971)


松村謙三
 南砺市福光新町出身の松村謙三先生は、幼少から漢籍に親しみ早稲田大学 政治経済学科を卒業して、報知新聞社に奉職、要職にありながら祖父、父の急逝を受け帰郷、家督を継ぐ。
 34歳で福光町会議員、続いて富山県会議員を経て43歳で衆議院議員に当選、86歳で引退するまで連続13回当選、その政治活動は半世紀に及んだ。
 国政においては厚生、農林、文部大臣を歴任、戦後の農地改革や日中国交回復の実現をめざして奔走される一方、郷土の国営水利事業として刀利ダムの築造に尽力される。
 生涯、清廉潔白を貫き、多くの人びとから深く敬愛された政治家であった。
 また、わが郷土南砺地方では名前の「謙三」から「けんそはん」の愛称で親しみを込めて呼ばれていた。

松村謙三先生の業績

「日中国交回復」に尽力


周恩来首相
 昭和34年、周恩来首相の招待を受け、戦後初めての我国保守党政治家として中国を訪問する。その際著しい新生中国の復興の状況をみて、日中国交正常化の必要性を強く感じられ、以来訪中を数えること5回、その間、周恩来首相をはじめ、多くの要人と会談した。
 昭和43年政界を引退したあとも、87歳の老体をおして訪中するまで生涯を日中両国の関係改善に捧げ続けられた。

「農地改革」の実施

 戦争によって国土の荒廃が進み、大変な食糧不足を来たした。敗戦直後(20年10月)幣原喜重郎内閣の農林大臣になられると直ぐ、食糧危機を解決するために、これまでの地主制度を廃止し、農地を小作人に分け与え、自分の農地として耕作意欲を高めさせることが必要として、「改正農地調整法案」を提出した。これが「第1次農地改革法案」である。
 農相を辞されたあと、昭和21年10月「第2次農地改革法案」が成立し、先生の念願であった自分の農地を耕やす自作農が一気に増加したのである。

国営小矢部川農業水利事業(刀利ダムの築造)


刀利ダム
 この地域を貫流する小矢部川は、古来、農業や水運に利用してきた。先人達は農業用水を長年にわたって整備してきたが、夏場の水不足や大雨時の河川の氾濫は深刻な問題であった。
 この窮状を救う方途として先生も奔走されダムの構築が計画されたが、一方、この計画で水没、廃村となる刀利地区5ヶ集落の人びとに対しても、先生は特段心配され、地元に出かけ膝詰めで説得に当られた。
 その結果、先生の地域の発展を願う熱意に村民も納得し、事業の中心である刀利ダム建設の運びとなり、昭和42年に竣工した。
 このダムは水利の整備に加え、電力資源(発電所)の充実、洪水など防災対策を講じた多目的ダムであった。
 また年中行事として8月に先生の胸像が立つダムサイトに関係者が集まり、「水神祭」が行われている。

松村謙三先生の略歴

1882(明16) 福光新町に出生
1902(明35) 高岡中学第1期生として卒業
1902(明35) 早稲田大学入学
1906(明39) 早稲田大学政治経済学科卒業 報知新聞社入社
(名古屋支局長、大阪支社長を歴任)
1912(明45) 帰郷、家督を継承、福光町会議員
1919(大8) 富山県議会議員に当選
1928(昭3) 衆議員議員初当選(44歳、以後13回連続当選)
1945(昭20) 厚生大臣(文部大臣を兼務)・農林大臣に就任
農地改革法案を衆議院へ提出     
1953(昭28) 改進党幹事長に就任
1955(昭30) 文部大臣に就任
1959(昭34) 自由民主党第6回党大会 総裁公選敗れる
(岸信介氏に320票対166票)中国訪問(以後日中国交回復交渉で5回訪中)
1962(昭37) 早稲田大学名誉法学博士
1966(昭41) 福光町名誉町民(河合良成とともに)
1971(昭46) 逝去 勲一等旭日桐花大綬章受章

高岡中学校卒業記念(明治35年)
松村は中列中央

中国旅行(明治37年)
蘇州日本領事館門前

早稲田大学卒業論文「日本農業恐慌論」

直筆の「当選御礼」の看板

農林大臣任命書(昭和20年)

自民党総裁選に出馬(昭和34年)

文部大臣として僻地訪問(昭和30年)

刀利ダム建設について刀利村人との交渉

周恩来首相、陳毅外相と会談(昭和34年)

郭沫若より贈られた書(昭和46年)

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